昭和四十七年六月二十八日
御理解第六十七節
「何事も釘付けではない信心を、各自にして居らねば永う続かぬ」
永う続かんと仰る、永う続かんだけではなくて、と同時に大きなおかげが受けられないと思う。勿論永う続かんとおかげを受けられんし、いわゆる大きなおかげも受けられない。
昨夜、豊美達が十二時頃帰りました、それをみんな見送ってから休ませてもらった文雄先生が泊まりましたから、例の通り御用さしてもらった。
電気を消して足を揉んでもらいながら、私眠るんですけれども、ところが、たまたま昨日の久留米の共励会の模様を、足揉みながら先生が話すもんですから、信心話になると眼は益々冴えてきて、とうとう二時過ぎまでお話しておりました。
まあだ尽きぬような事でございましたけれども、二時頃文雄先生が出ましたし、私もそれから、とろとろとしましたら二時半でしたから、おかげを頂きました。
話がたまたま桜井先生夫妻の事になりました、そらもう大変な修行なさった夫婦であるし、しかも福岡の大教会で長い間修行されたし、もう本当に金光様の先生ちや、こげな風でなからにゃならんのだろうかと云う程、素晴らしいと云う事でした。
けれどもその、合楽の信心から云うと、矢張りそれではおかげ受けられん、いわゆる信心は釘付ではない、もう、決まったもののように金光様の信心とは、こうあらなければならない、又先生はこうあらなければならない、まあそれを、そうある人も本当に少ないですけれども、まあ桜井先生ご夫妻の場合には、もう本当にそうあらなければならない、そのように、云うならば金光様の先生の、見本のような方だと、こう云うのです。
まあほめ言葉やら、ほめ言葉でないやら分からんのですけれどもね、結果に於いては、まあ云うなら先生、桜井先生辺りの御信心は盆栽のようなもんですよと、もうその、ひねくりまわされてから、枝はこげな風にせにゃいかん、ちょっともう芽が出りゃつまれる、ちょっとこちらに枝振りが悪かと云うと、もうそりゃ切られとるといったような風で、もう、つみ上げられた、丁度鉢の上に上げられた盆栽のようですから、あれでは大きくなれませんという事を、先生が話しますんですよ。
ほんなこて、桜井先生辺りの信心は、そげな風ねえ、いわゆる釘付けにしてしまっていると云う事ですよ、その点、合楽の場合はもう、様々な層の信者さん方がおりますが、もう云うなら我がよかごつと云うごたる風、あっち出とる枝があるかと思うと、こちらにもこう出とる。というですから、もうそれを私が本当に、自然主義者ですからねえ、ある意味での、ですからもう、どっちにでんしこれと云う行き方ですから、まあ云うならこのまゝいきゃあ、うっそうとした大きな木にもなれようと云う感じ、まあ荒削りと云や荒削りだけれども、例えば今日の御理解の、この六十七節から頂きますと合楽の場合は、成程釘付けにしてないなあと云う事です。
いわゆる金光様の信心者の、ひとつのタイプといったようなものが出来てしまうとですねえ、本当におかげを受けんです、もう詳しくなるです、成程素晴らしい態度、形に見えるですけれども、もうそれだけの事、私共の場合本当になる程、教祖金光大神の御教えを元にしてでございますけれども、それぞれの受けとめ方が違うですこゝでそんなら百人の人が、御理解を頂いておるとするなら、その百人の人が、それぞれに頂きどころが違う、私はこゝをと思うて、言わば強調しながらお話しておりましても、その枝のところ、葉のところだけを有難いと思う人もあるし、又、私では気もつかないようなところを、いわゆる言外の言、とでも申しましょうか、私がお話をしなかった以上のものを、私のお話の中から受けとめていくという人もある、それをだから、自分の家に持って帰っての信心修業ですから、それこそあらゆる、云うならタイプが出来ると云う事なのです、ほんなこつじゃもんねえ、ほんなこてやっぱそげな風ばい例えば家の子供達を見てもそうじゃんねえ、七人の子供が居るけれども、その七人の子供が一人一人違う、お父さんの信心はこうだからこういう型にと、又育てようとも思いませんしね、、ですから合楽の場合は士農工商的な具合に、ちゃあんと神様がお育て下さる。うちゃもう明善商でなからにゃでけんとか、うちゃもう浮羽工業でなからにゃでけんとか、と云う風に決めていないのです。
それこそ将来は金光様の先生にならにゃ出きんとが、どう云う訳で農業学校へ行ったか、金光様の先生にならにゃんとが工業学校に又は商業学校に、なんなら算盤の稽古せにゃならんのか、と思うようですけれども、商業学校に行ったら商業学校に行ったで、矢張り簿記なら簿記、珠算なら珠算を本気で稽古しなければならないよと云うのが行き方、もうそげなこつは信心には、あんまり関係のなかけん、そげん勉強せんでんよかぞと、いう事を云わない。
これはもう信心の上に於いても、生活の上に於いても同じ事、もうそれはもう本当に、まあ場合には親の眼から見て、あそこはち―った枝が出過ぎよる、ここんにきがどうもうすい、親の眼から見ても、どうも目に余るような事がある、けれども私は切らない、神様はそこにどういう御神意、御神慮があるやら分らん。
光昭なんかもう農業学校時代に、あゝいう楽器類が好きで、もうそれこそ学校時代は謹慎をくらうと云うのですか、一週間ぐらい行かれない、そういうような事もあったんですけれども、あの人がうちのプラスバンドが急激にみんなが上達したとか、もうまだわずかな間に、あれだけの事が出来るようになったという事は、これはやっぱり、光昭の指導よろしきを得たから、自分が好きですからそれに打ち込む訳です、子供達からみんな慕われるというのも、好きなんですそういう事か。
うちの若先生なんか、そげなこつなんかもう、ふるふる好かんという訳じゃなかろうばってん、全然ノ―タッチでしょう、あんた若先生じゃけん、ちった若い者の面倒見らにゃと、私は云うた事はない、それはそれなりで、若先生は若先生なり、光昭は光昭なりに、子供達の一人一人が、私は釘付けにしない事に致しおりますから、どういうのが出来上がっていくか実に楽しみ、しかも私が育てるのじゃあない、神様が育てなさるのだからと、いう考え方なんですから、私は今日、何事も釘付けでない、信心も各々にしておらねば永う続かぬと仰るが、永う続かぬと云う事は、もうそこでしまえてしまうのですから、おかげは受けられないという事になる、ですからこゝのところは、永う続かぬというだけではなくて、大きなおかげが受けられんという事になる、釘付けにしたら、そんなら桜井先生タイプの人ばあっかし、もし作ったとしたらおかげは受けられないこれが金光教の先生でございます、これが金光教の信者でございます、といったようないき方では駄目だ。
そこでまあ、現在合楽で打ち込んでの御信心が出来てますから、思う存分合楽の御教えを元にしてです、手も出し足も出させて頂かれるおかげを受けなさらんと、言わば盆栽の鉢からです、一辺大地に根を張り下ろさねば駄目だなと云うて、文雄先生と話した事です本当に、例えばあげなこつでよかじゃろうかと思う信者も沢山います。だからその事に対する祈りだけは、しっかり致しますけれどもどうあるようにとは祈りません、神様が云うならば、思うまゝに自由自在にお伸ばし下さる、お育て下さるという事を、思わせて頂きますから、私は合楽は、愈大きくなるばっかりだと思うです。
そしてその全体の中からです、それを全部ひっくるめたところに一つの合楽流といったものがある、わがよかごと伸びるというならば、そういう伸び方が合楽流と云うても良いかも知れない、だからそれこそ鉢の上に上げて、盆栽を作るようにして作っていく事を、本当だと思うたりしておる信者とか先生方は、どうもおかしいと云う事になるのじゃないでしょうか。
皆さんの生活の上に於いてもそうです、とりわけ、そんなら自分の子供達を、あゝもあってほしい、こうもあってほしいと云うのは親の祈りでもあれば、願いでもあるのでございますけれども、だからこうしなさい、あゝしなさいでは決して、本当なものは育たない神様ひとつ思う存分おかげ下さい、そん為には、私は云うならば、黙って治めるという行き方にならして頂きますと、神様どうぞよろしくお育て下さい、という行き方にならせて頂いて、神様に縋っていくという事が、本当だと思わせて頂きますですね、各々にしておらねばと、ですから矢張り、信心だけは型は違うけれども、しておかなければいけないと云う事です。
十人十色、しかも同じお話を頂きながらでも、十人が十人同じところを、有難いと頂いておるとは思われない、だからそれはそれなりのおかげを頂き、例えば私が伝えさせてもらう以外の事を、云うなら言外の言のところを頂いて、おかげを頂いていく人達もある。人を例えば作るという事ではなくて、合楽の場合は、作って頂くという事になる、人を育てるという事ではなくて、育てて頂くという事になる、ですからその頂くという姿勢を、合楽ではやかましく云う訳であります。
人を作ると、人を育てると、仲々人が育たない、教会で若い層の信者がどこも育たない、丸少、青年会、それが教団のひとつの悩みでもある、だからその、どういうような風に育てるかと云う事だけに一生懸命になって、いわゆる育て方を研究しよう、だから育つかのように見えるけれども、実は育たない、そこに本当に私は、教団全体が目覚めなければならんのじゃないかと思います。
そんなら合楽の場合は、私が丸少を作れ、青年会を作れとも云わんのですけれども、他所辺りでは丸少が出来たかと思うと、いっときばかりでもう消えてしまう、青年会を無理して作るけれども 又何回ともなしに繰り返し繰り返し、変わっていく事になっていくという事になって、第一若い者が集まらないというのが、もう本当に本教の現状であります、それは作ろうとするからであります。
よしそれが作ることが出来たに致しましても、それは盆栽のようなものしか作り得ません、そこで合楽の場合は釘付けではないとしてです、云うならば自由自在な、神様に作って頂くという行き方、作って頂くのであるから、それを頂く姿勢というものを、合楽ではもうこゝを兎に角、厳しく申し上げる訳です、云うならばおかげを頂く、いわゆる受け物を作らしてもらう、そして自分が作ろうとはさらさら思わないという行き方。そこんところが云うなら、黙って治めると云う事でもありますし、又は御事柄として受けていくと云う事でもあるのです。
頂く姿勢という事、作って下さる、その作って下さるものを、こちらが頂くという姿勢を作ることが、私は信心だとこう思います。ですからこちらの姿勢さえ出来れば、神様がなんぼうでも作って下さるのです、だからまあ結局、各自に信心をしておらねばならぬ、今日の御理解は私は、こういう風な表現で頂いとりますけれども、信心も釘付けではないという事を、これはどの御教えだってそうですけれども、大変な御教えだなあ、愈大きなおかげを頂く為には、信心は釘付けであっては絶対ならない。
教祖様の御教えというものは、もうそんなに、云うなら世界の宗教の全部をまとめても、教祖様の教えて居られる御教えには、かなわないという事、これが金光教だと云うように、型を決めてしまわんで、いわゆる世界に大きく羽ばたくとか、栄えるとか云うようなおかげを頂く為に、教団全体がこゝの御理解をです、釘付けにしないで、そしておかげを頂くという姿勢を作る事だけに、専念すれば良いと、これは目覚めなければいけないなと思います。
それを、例えば小さい事ですけれども、合楽教会の場合を思うて見る時にです、私はその人その人、一人一人をです、こうせにゃならんといったような風には育てない、神様がお育て下さるのだからですからその受ける姿勢を作る事に、一生懸命になったら良いと云う事になるのです。
自分達の、例えば少しは教育しとかにゃ、とこう云います、子供でも、ちゃんとしつけをしとかにゃと、しつけをして悪いのじゃないけれども、それはどこ迄も、信心のしつけでなからにゃいけません、もうあそこの子供は行儀の悪かと云われてもいゝです、そんな事はおかげにはかゝわりないです。
そらもう本当に大人でん勝たんごと、きちっとしつけをしてある所の子供がありますよ、そらもうお客さんが見えたら、手をついて頭をこげんせにゃならん、こうまかなりしてから「おっちゃまこんにちは」と云わにゃならんと、いうごたる、もうそげなこつはなあにもならんこつ、かえって、そんな風になってしまうです。
まあ例を云うならいくらもあります 合楽の場合はいかにも、例えばそんなら信者を育てるでも、子供を育てるでも野放図にそだてゝおるかのように見えますけれども、その野放図の素晴らしい事、それこそ後から気付かしてもらうと、成程士農工商になっておるといったような、おかげになってきておる。
と云うて、そんなら野放図では決してない、親が子供を見る時に師匠が弟子を見る時に、どげんでんよかと思う筈が無い、問題は一人一人が本当におかげを頂いてほしいと、願うだけのこと、だからそんなら、私が出来る筈ないのだから、神様にお育て頂かなければ出来んのだから、育てて頂くのであるから、そんならこちらが頂かせてもらう、姿勢を作る以外にはない、だからその姿勢を合楽ではやかましく言って居る訳である。
だからその姿勢をです、習わせて頂きながら、自分で育てようとしたり、自分で左右を、親が云おうとしたりしておるような事ではだからどっちつかずになると云う事、そこんところを任せると云う事にもなるのです。
大きなおかげを頂く為に、永う続かぬという事は、私は大きなおかげは受けられないと云う意味だと思います、ですから大きなおかげを頂く為には、全てのことをひとつ野放図と思われる位に、自由自在にお育てを頂けれるおかげ、云うならば、どうぞ神様のお働きに対する、私共が邪魔にならんような信心をさせて下さい、という事になるのじゃないでしょうか。
どうぞどうぞとお願いしながら、私共が心配する、私共が出しゃばっていくところからです、神様の働きを、云うなら小さいものにしてしまう、又は神様の働きをストップしてしまうような事に、なっておるような事はないだろうか。
神様の働きと云うものは、それこそ限りが無い、その深さ、幽遠さ、御神慮の深さというものは、私共の計り知る事ではない、そういうおかげの中に、私共が身を委ねさせて頂くのである、そこから愈、只もうどうとかなろう、後は野となれ山となれ、といったように見えるけども決してそうではない、姿勢を作る事に一生懸命になっておる、神様に向かうて願うておる事には、一生懸命になっとるこれはもう本当に、合楽のこゝ二十何年間の事を思うてみてもですそれはもう本当に、あげな信者ば、もうことわりなさったがいゝですよと、例えば云うごたる事でも、私はことわらなかった、それが云うならば、大きなおかげの元を作っとります。
本当になりゆきを大事にさしてもらい、御事柄として、大事に頂いていくというような行き方こそです、神様の自由自在な働きを、いわゆる十全にするものであるという事。
私が育てるのじゃあない、私が作るのではない、神様が育てゝ下さるのである、神様が作って下さるのである、だから作って下さったものを、育てゝ下さったものを頂くというだけの事、だから頂く姿勢がやかましい、頂く姿勢をやかましく云う、だからやかましく云うて、その姿勢を教えられながら、私共が神様のお働き、神様の分域に私共が入ろうとするところに、おかげがいつもスッキリしないと云う事になる。
度胸据えてお任せし、度胸据えて信心の姿勢作るという事に、精進させてもらえば良いと云う事になります。何事も釘付けではないという事を今日は、大変失礼でしたけれど、桜井先生の例をとりました、桜井先生なんか、今迄永年の信心なさって居られますけれども、ひとつの釘付けにされておられたような感じ。
それで それはもう見事、けれどもそれは鉢の上に上げられた盆栽のようなもので、ちょっと出りゃもう切られる、ちょっとまっすぐ行きよりゃもう曲げられる、盆栽としてならいゝかも知れないけれども、大きなおかげにならない、いわゆる釘付けではつまらない事を分からせてもろうて、愈大きなおかげを受けなければならんと思うですね。 どうぞ